オリジナリティについて考えてみた。
ブログに書くほどの事じゃないかもしれないけど、Facebookだとあとで記事が読み返したくなった時に見つけられない気がしたので、こちらに書くことにしました。
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今日、友達とオリジナリティについて話していて、
オリジナリティが薄かったり苦手な人がいる反面、、逆に自分らしく再構築しないと上手く使いこなせない人もいるよねって思ったの。
前者の能力は、勉強で点数を取るには有効。
後者が強い人は、付け焼き刃では点数とれないけど、専門的に勉強すると、誰よりも詳しくなれて、しかも下手すると教え方も上手いかも知れない。
だけど、人間には得意・不得意があって、
私の場合はオリジナリティ大好き人間の後者寄りだけど、元々 根本にある根っこの考え方にも興味あるタイプだから、そこに興味持てた分野だけはテストの点数が取れるw
興味なければ全く無理www
(これでも、後者寄りのタイプにしてはバランス良い方かと思うけど。笑)
さて、本題。
そのオリジナリティって、すごく良いことだと思われたり、自分で仕事するためには必要な要素かと思うんだけど、、
この話をしながら、
ムダを愛すること♡と一緒に
プラモデルを作る男の子と、「将来役に立たないから勉強しなさい」と怒るお母さんが頭に浮かんだ。
先ほどの後者が、プラモデルを作る男の子である。
でも、一般的には母親の方が正しいとされている。。
だけど、母親のいうとおりにしたら、ムダを愛することが出来なくなるので、試行錯誤する思考や、状況改善能力の使い道がないため、どんどんオリジナリティのない人間になってしまう。
ただし、あくまでも後者(オリジナリティ得意)にとっては弊害となるだけで、前者タイプの人からすると、大変好都合な環境なのかも知れない。
しかし、社会に出れば自分らしさを脅かし・皆を統一させようとする存在もいれば、自分らしくいないことに難癖を付ける場面も多々見る。
要は、評価する側が「人は自分とはちがうのだ、」と知ることが大切なんだと思う。
オリジナリティが得意なタイプは、人の教え方だと意味がわかりづらい場合がある。
それを「なぜ分からない?どこが分からないか説明しろ!」と、本人がまだ口に含んだばかりの料理の味を尋ねるかのように急き立ててくる人がいる。
反対に、後者タイプは「一般的」な教え方が少し苦手なので、経験値が低いと親切にも、隅から隅まで伝えたくなってしまう。
(少し余計な、時短のコツまでも♪)
待つことと、順序(1度に与える課題の分量)さえ守れば、なんてことないのだが、それを体に染み込ませるまでが少し大変だ。
(そして、前者タイプは これをしなければ伝わりづらいことにすら気付かず、「あいつは使えない」という者が非常に多いと感じている。元来、人を育てることをムダ(=コスパが悪い)とどこかで思っているからだ。自分でやれば早いのは分かるが、人を使うこと・育てることの楽さと楽しさを知らないんだな、と感じる。)
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脱線したが、そのまま続けよう。
ルールに縛られてる人間ほど、オリジナリティを求めるが、
オリジナリティとは、ルールの中にしか存在しない。
音楽でいうとわかりやすいだろう。
よく同じ曲を色んな歌い手がcoverすることがあるが、
リズムと音階が決まっているそれをどう表現するか?
そこにはオリジナルが存在している。
「このルールやセオリーを守りながら、究極どこまで自分らしさを出せるか?どこまでだったら原曲を崩しきらず、別のもののように聴かせられるか?」
そこの極みにムダへの愛♡を感じるのである。
ここが愛せない人は、子育てが親も子どもも苦しいことになるなぁ〜、きっと。
と、思った。
(ただし、ルール無視のオリジナリティの人は子どもが犠牲になることもお忘れなく。。)